2009年06月29日

経済面において韓国は

経済面において韓国は、日本との関係が深い。韓国から日本への電子部品や工作機械などの輸出も増大している。韓国の対外輸出の増加にともない、日本からの部品輸入や日本への特許使用権料の支払いも増加しており、戦後一貫して韓国の対日貿易は赤字が続いている。2007年度には対日貿易赤字が過去最高の289億ドル(約3兆2000億円)に達した[6]。

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その原因として、韓国は技術、部品、素材などの日本への依存度が高く、技術力、信頼性は日本のほうが秀でていることから、韓国製品の日本輸出が難しいという構造的問題があるとされ[7]、「韓国が世界貿易で稼いでも、その半分以上を日本へ引き渡している構図である」[8]と指摘されている。対日輸入の金額自体は増加しているが、輸入に占める割合は2005年には18. 5%、2006年は16. 8%まで下がっており全体的に減少傾向にあり、輸出でも同様の現象が起こっている。これは韓国企業が開発途上国など新興市場を積極的に開拓したことが大きい[9]。

李承晩政権時代には外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に2度に渡り通商断交を宣言したことがある。その第1回は1955年8月?翌年1月、第2回は1959年6月?翌年4月である。しかし、2回とも1年以内に通商を再開している。2003年に両国首脳は自由貿易協定 (FTA) 締結を目指すことで合意したが、交渉は難航している。

2009年06月12日

フルオロウラシル(Fluorouracil)は

フルオロウラシル(Fluorouracil)は、フッ化ピリミジン系の代謝拮抗剤で、抗悪性腫瘍薬(抗がん剤)。ウラシルの5位水素がフッ素に置き換わった構造をしている。

1956年にDushinskyらによって合成され、その後Heidelbergerらを中心として基礎及び臨床にわたる広範な研究で抗悪性腫瘍剤としての評価が確立された。

代表商品は「5-FU XX(剤形)協和=ファイブ・エフユーXXきょうわ=」(発売:協和発酵キリン)。古くから有る為、ジェネリック医薬品も多数流通している。
また、1990年代よりフルオロウラシルをプロドラッグ化などの改良を施し、より強い効果が期待される薬剤(内用薬)が開発され、上市されているもある。(ユーエフティー・TS-1/ゼローダなど)

代表的な「5-FU XX 協和」の場合、注【注射薬】・錠・ドライシロップ【内用薬】・坐剤/軟膏【外用薬】)の剤形があり、用途に応じて複数の主成分量毎に商品化がされている。なお、「5-FUドライシロップ5%協和」については、2009年3月末で販売終了する(ジェネリック医薬品が実質的な代用製品となる)。

5-FU注XXX(内容量)協和
下記疾患の自覚的並びに他覚的症状の緩解
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争

胃癌、肝癌、結腸・直腸癌、乳癌、膵臓癌、子宮頸癌、子宮体癌、卵巣癌
下記の疾患については、他の抗癌剤又は放射線療法と併用。

食道癌、肺癌、頭頸部腫瘍
他の抗悪性腫瘍剤との併用療法
頭頸部癌
5-FU錠XXX協和・5-FUドライシロップ5%協和
胃癌、結腸・直腸癌
子宮頸癌・乳癌。
5-FU坐剤XXX協和
S状結腸・直腸癌の自覚的及び他覚的症状の緩解
5-FU軟膏
皮膚悪性腫瘍(有棘細胞癌、基底細胞癌、皮膚附属器癌、皮膚転移癌・悪性リンパ腫の皮膚転移、ボーエン病、パジェット病、放射線角化腫、老人性角化腫、紅色肥厚症、皮膚細網症)
適用外使用として、ブレオマイシン軟膏と並んで癌以外の疾病にも医師の裁量で用いられる場合がある。(皮膚科→イボ・ウオノメ、婦人科・性病科→尖圭コンジローマが代表例)。外国製品の個人輸入が専ら取り扱われているが、強力な薬剤(劇薬指定)でかつ抗癌剤であるため素人が扱うべきものではない。

2009年06月07日

化学兵器は即効性のものと遅効性のものが存在する

即効性:殺傷目的(例:サリン、VXガス)
遅効性:環境汚染目的(例:マスタードガス)
即効性のものは主に戦場において敵兵士を即時に殺傷することを目的としている。一般に殺傷能力の点では優れるが、環境中に放たれてから分解されるまでの時間が短く、加害の持続効果はあまりない。

遅効性のものは、即効性のものより一般に殺傷能力の点では劣るが、環境中での分解に時間がかかるため、長時間散布地域一帯を汚染し場合によってはその汚染事実が被害側には容易に判別できないために、汚染の拡大が期待でき、拡大後に効果が生じることになる。戦場であれば比較的後方の補給路や集積地、又は都市部や農地への無差別的な攻撃によって、補給能力、産業経済、政治、医療負担などの多様な方面から継戦能力を減殺する目的で使用される[1]。

超遅効性の化学兵器であれば、接触後、数年から十数年、あるいは数十年経過したのち効果を表す。

化学兵器はその定義により分類が異なるが、第一次世界大戦よりも以前から様々な戦争・紛争に於いて使用され、近代以降になってからその被害の大きさなどから使用が問題視されている。
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古くは唐辛子を燃した煙を利用するものが明代の書物にも登場していたことから、広く定義するならばその歴史は古い。近代に入ると科学技術の発達や化合物の発見などからより効果的なものが開発され、クリミア戦争においてイギリス軍が実験的に使用したという記録もあるくらいだが、その威力のほどを広く知らしめたのが第一次世界大戦だった。この時代、戦闘は塹壕戦により膠着状態(両軍共に塹壕を掘ってお互いに回り込もうとするが、兵力が拮抗している場合に、補給線が続く限り何ヶ月もにらみ合い状態に陥るケースも見られた)に陥り易かったが、塩素ガスを用いて相手陣地側の兵力を削ぐ目的で使用された。後にホスゲンが開発され、同様に利用された。

これらのガスを吸引した兵士は、高濃度のガスに晒されれば勿論全身の組織を塩素による化学反応で破壊されて死亡した訳だが、低濃度でも呼吸器官に甚大な被害を受け、喀血して死亡しないまでも、呼吸困難に陥って長い間症状に苦しむ事から、非人道的な兵器として恐れられた。なおこの時代の毒ガス兵器は、風向きを考慮に入れ、相手陣地の風上から燻すような方法が取られた。なお同時代にあっては、相手戦力の士気を落とす目的で、無毒な煤煙で燻す戦術も行われたという。

2009年04月24日

親潮

親潮(おやしお、Oyashio Current)とは千島列島に沿って南下して日本の東まで達する海流である。北太平洋亜寒帯循環の西岸沿いに南下する部分を構成する。千島海流(ちしまかいりゅう、Kuril Current)とも呼ばれ、黒潮とならび日本近海を流れる代表的な海流である。この流れは日本列島の東岸で黒潮とぶつかり北太平洋海流(北太平洋ドリフト)となって東方へ向かう流れとなる。栄養塩に富んでおり、親潮という名は「魚類を育てる親となる潮」という意味でつけられた。また北海道東方や釧路沖、三陸沖などに存在する低温・低塩分で溶在酸素量が多く、栄養塩に富んだ水塊のことを親潮という場合もある。

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東カムチャツカ海流の一部がオホーツク海に入り、オホーツク海の更に低温・低塩分な海水と混合し、循環してウルップ海峡から再び太平洋に出て、千島列島沿いをそのまま南西に流れてきた東カムチャッカ海流と合流、親潮が生成される。形成後、親潮は千島列島の南方海域を列島に沿って南西に向かい、北海道の南東岸の沿海を洗ってさらに三陸沖に南下する。親潮は日本東方海域に達した後、黒潮と合流して大部分は北太平洋海流として東に向かう。

2009年04月06日

日本の音楽業界におけるインディー

日本の音楽業界におけるインディー(インディーズ)とは、日本レコード協会に加盟していないレコード会社(会社のみならず、プライベート・レーベルとしての事務所等も指す)及びそこに所属するアーティストを指す。

メジャー [編集]
日本の音楽産業は、日本語で歌われている楽曲が多いため、その販路のほぼ100%が日本国内(または日本人)であり、アメリカのような時差を利用した業績維持が困難である。そのため、日本のメジャー・レーベルは、売り上げが急激に悪くなり、業績が一気に悪くなる時期が出来る。

業績が悪くなる時期は、業績がとてもいい時期の後であることが多い。業績の良かった例として、80年代のアイドルブームの頃、90年代のプロデューサー主導時代などがある。業績がいいと、その音楽ジャンルに経営資源が集中し、二匹目のドジョウを狙った類似楽曲や類似アーティストが増加し、新たなジャンルの開拓や新人発掘が停滞してしまう。そうなると、メジャーが供給する音楽に消費者が満足しなくなり、売り上げの低下が起こる。

メジャーの草刈場 [編集]
メジャーが供給する音楽が停滞すると、インディーズ系の音楽との質的差が縮まる。そのため、メジャーの会社は自社内で新人を育てるよりも、インディーズバンドをそのまま「メジャー・デビュー」させることが多くなる。アイドルブームの後には「バンドブーム」が起き、プロデューサー主導時代の後にはビジュアル系、ヒップホップ系バンドがインディーズからメジャー・デビューした。

インディーズ・バンドの多くは、メジャー(有名・収入増)になることを夢見て日々活動しているので、メジャー・デビューすることは悪いことではない。しかし、メジャー(大手製作会社)から見れば、音楽の質が低く洗練されていない時期はインディーズとして活動してもらい、質が上がって売れる音楽が作れるようになるとメジャー・デビューさせる、という方針は、自社の払い出しが少なく利益が大きい楽な商売となり、インディーズを「草刈場」にしていると言わざるを得ない。

欧米と日本のインディーの違い [編集]
日本の音楽におけるインディーズは、上述の通り、大雑把に言ってしまえば「有名でないアーティストが属す、メジャーへの踏み台」という性格が強く、実際のところほとんどの場合は音楽で生活を営むために、日本のアーティストはメジャーを夢見ている例がほとんどである。しかしながら、海外においてはこの価値観は必ずしもまかり通らないところがある。

音楽は基本的にはアート(芸術)の一分野であり、難解な音楽、実験的な音楽、ルーツミュージックなどのニッチな音楽を志向するアーティストも数多く存在する。しかし、これらの音楽はその評価とは裏腹に商業的な成功には恵まれ無いことがほとんどであり、資本の最大化を主眼としているメジャーの音楽会社においては、当然ながらこれらの売れないアーティストがその傘下で音楽を作ることを許されるのは稀有な例となる。よって、これらのアーティストはアンダーグラウンドにおいてインディー・レーベルに所属し、その創作活動を続ける場合が多い。これらの背景から、インディーは「メジャーへの踏み台」としてではなく、「ニッチな音楽を志向するアーティストが存在し得る場」として、一つの唯一的な地位を有している。

また、ドミノ・レコーズやサブ・ポップ、クリエイション・レコーズなど、下手なメジャーの音楽会社よりもはるかに人気のあるインディー・アーティストを実際に有し(ニルヴァーナやストーン・ローゼズ、Oasis、プライマル・スクリーム、現在ではアークティック・モンキーズなど、自国のヒットチャートでダントツの1位を記録しつつ全世界で1000万を優に超えるCD売上を叩き出す「インディーズ」のロックバンドは、実際に数多く存在している。これは日本ではほんの一部の特例を除けば、全く考えられないことだと言えよう。)、業績も好調なインディー・レーベルが多数あることも、欧米においてインディーが幅を利かせる理由だろう。

現在の日本のインディーズ・シーン [編集]
1999年にトイズファクトリーとのメジャー契約を終了したHi-STANDARDが自主レーベルから発表した『MAKING THE ROAD』がインディーズとしては異例のヒットを記録する。2001年にMONGOL800が発表した『MESSAGE』がインディーズ・アーティストとしては国内史上初のミリオンセラーを記録。以降、HY、Def Tech、ELLEGARDEN、ガゼット、シドなどといったインディーズ・アーティストが相次いでヒットを記録しているため、かつてに比べれば「メジャー予備軍」としての意味合いは幾分だが薄れては来ている。但し、資本や流通やアーティスト関係などでメジャーと繋がっているところも少なくないので、インディーズの概念として曖昧な部分も多い。

あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

2009年03月22日

日本模型

日本模型(にっぽんもけい‐Nichimo co.,ltd:略称はニチモ)とは、日本の模型製造会社である。正式名称は日本模型株式会社。所在地は栃木県佐野市久保町135。 1951年創業の古参メーカー。
モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

1951年に日本模型航空工業として創業。当初はゴム動力のライトプレーンなど製造していた。日本初の模型と云われるマルサン商店・ノーチラス号が発売された翌年の1959年にプラモデル業界に進出、自社開発の自動浮沈装置付きのプラモデル・伊号潜水鑑が発売された。

プラモデル全盛期 [編集]
創業期から自社オリジナルSF戦車を始め、スケールモデルの1/20・1/12モデルカー、1/50・1/48飛行機エアモデル、1/30電動リモコン戦車モデルなど魅力ある製品を多く送り出していた。オイルショック前の1973年当時、社内に設計開発、金型の製作、成形、出荷という一貫体制を整え、AFVブームや安定したスケールモデル、スケールを無視して大きさを30cmに統一した「30センチシリーズ」などの艦船模型を発売。人気が続き年間売り上げは約10億円に達し、プラモデル業界25%のシェアーを得る大手メーカーになるまで成長した。

艦船模型 [編集]
1971年のウォーターラインシリーズが始まるまでは、当時の水準での考証・ディテール・ディフォルメの良さ、豊富な艦船モデルバリエーションではニチモがトップメーカーだった。

当時、ニチモ金型設計部門に在籍した森恒英は、名作として名高い1/200-戦艦大和、1/300-航空母艦信濃を始め、 各スケール・シリーズ艦船モデル設計に携わり、「艦船のニチモ」のブランドイメージ作りに寄与する。 彼はニチモ退社後独立し、タミヤの「軍艦雑記帳」の解説や軍艦関連の本の出版に携わった。本書は現在でも艦船モデルのディテールアップの貴重な資料・バイブルとして愛読され続けている。また、ウォーターラインシリーズが模型市場での一定の需要を満たし、今日まで続く超ロングセラーとなっている事も、彼の功績によるところが大きい。

スケールモデル衰退期 [編集]
スケールモデル人気が沈静化し、ガンプラ全盛の1982年、超時空要塞マクロスのピタバンシリーズで小スケールキャラクターモデルに参入する。その後80年代中頃まではモーターライズモデルカー新製品開発は続いていたが、スケールモデル「冬の時代」を迎え、更に先代の社長が亡くなって以降は金型開発コストに似合う販売数が見込めず新規開発はストップし、過去の模型の再生産・箱変え新製品を続ける事になる。

近年は、精密さがアップしたAFV・航空機モデルの人気が再燃してきているが、すでに新規開発部門を失っていたニチモは、静岡ホビーショーでも旧作「箱絵」展示がメインとなり、再生産も行われる商品が減少してきている。金属ギアボックス部品を使用するリモコン戦車などは、下請け製造メーカーの廃業で再発売が難しくなっている。このため、模型だけでなく工業向けプラスチックパイプやバケツ等の射出成形で利益を確保しているといわれる。

代表的な模型 [編集]
1959年 - 自動浮沈式の特許出願・模型「伊号潜水鑑」が発売
1960年 - 戦艦「大和」(300円)発売大ヒット
1968年 - ミュージックシリーズ発売
1960年代-1970年代 - 30センチ艦船シリーズ、リモコン戦車シリーズ発売
1980年代 - 茶運び人形を製品化した。

現在の主力商品 [編集]
2006年度の主力製品は

「30センチシリーズ」日本艦船シリーズ(13点)
武蔵、長門、伊勢、金剛、翔鶴、霧島、大和、信濃、陸奥、日向、榛名、瑞鶴、比叡
ニチモの30年以上に渡る定番商品のロングセラーモデル。モーター航行可能。近年、商品の一番のセールスポイントとなるボックスアートがコストダウンのためシリーズモデル一覧表示の全製品共通となり、以前の単独ボックスアートに復活を望む声も高い。
「1/48エアモデル」
赤とんぼ、九七艦攻、九九軍偵、屠龍、隼一型など。 ヘルダイバー、ドーントレス、ハンター、ライトニング、アベンジャー、Me262は海外メーカー製品をコピーしたかつてのマルザン(マルサン)製1/50キットの金型を引き取ったもので、長らく絶版だったものが新規開発が停止した1990年代以降に再版されている。なお零式水偵も旧マルサン製品であるが、他社のコピー製品ではない。1970年代は単発機の価格が一機300?500円程度だったが、現在は大幅に値上がりし、古いキットを懐かしむモデラーを購買対象としている。
「1/500艦船シリーズ」航空母艦「瑞鶴」「翔鶴」「飛龍」
「南極観測船」しらせ
「1/200艦船シリーズ」戦艦大和:ディスプレイ・スタンダード・ラジオコントロール3種類

2009年03月07日

クリーブランド (軽巡洋艦)

クリーブランド(USS Cleveland, CL-55)は、アメリカ海軍の軽巡洋艦。クリーブランド級軽巡洋艦の1番艦。艦名はオハイオ州クリーブランドに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

クリーブランドは1940年7月1日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工し、1941年11月1日にH・バートン夫人によって進水、1942年6月15日にE・W・バーロウ艦長の指揮下就役する。

1942年10月10日にチェサピーク湾を出航し、クリーブランドは29日にバミューダ諸島沖で北アフリカ侵攻のための任務部隊に合流する。クリーブランドは第二次世界大戦に投入された初の新型艦艇となった。クリーブランドは11月8日に仏領モロッコのフェドハラへの上陸支援の艦砲射撃を行う。その後も12日まで偵察巡航を行い、24日にノーフォークに帰還する。
らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ

1942年12月5日に太平洋に向けて出航し、1943年1月16日にエファテ島に到着する。ソロモン諸島強化のためのクリーブランドの最初の任務は、第18任務部隊とともにガダルカナルに向かう船団を1月27日から31日まで護衛することであった。クリーブランドは29日と30日のレンネル島沖海戦で日本軍による激しい攻撃に対して対空砲撃を行った。

クリーブランドは第68任務部隊に加わり、1943年3月6日に「ザ・スロット」と呼ばれるニュージョージア海峡へ向かい、コロンバンガラ島の日本軍を攻撃する。その後8回の戦闘に加わり、ビラ・スタンモーア夜戦で2隻の日本海軍駆逐艦(峯雲、村雨)を撃沈している。

クリーブランド艦長は6月にアンドリュー・G・シェパード大佐に交代する。「メリルの襲撃隊」第68任務部隊に所属するクリーブランドは6月30日にショートランド諸島を砲撃し、7月12日にはニュージョージア島のムンダに対する上陸の支援を行う。オーストラリアのシドニーで短期の補修を受けた後、10月26日と27日にはトレジャリー諸島への上陸前艦砲射撃を行う。任務部隊は11月1日にブーゲンビル島侵攻部隊の支援のためブカ島とボニス島へ砲撃を行い、同日南に向かいショートランド諸島への攻撃を行う。その晩ブーゲンビル島沖海戦に参加し、その功績で海軍殊勲部隊章を受章した。クリーブランドはレーダーを使用して4隻の日本軍巡洋艦に一時間以上の砲撃を行い、川内の撃沈に貢献した。続いて夜明けまで残りの艦を追撃するが、航空攻撃を受け一発の至近弾が艦を大きく動揺させた。クリーブランドは応戦し敵機数機を撃墜する。1944年2月13日から18日までトラック島とグリーン諸島の間を偵察した。

1944年3月17日から3月23日までエミラウ島攻略支援を行い、その後補給と修理のためシドニーに向かう。4月21日にソロモン諸島に戻りマリアナ諸島侵攻作戦の準備に入る。5月20日の砲撃訓練中、予想外の陸上からの反撃を受ける。艦に損害はなく、砲撃により間もなく敵砲台は沈黙した。

クリーブランドは1944年6月8日から8月12日までマリアナ諸島侵攻作戦に参加する。テニアン島侵攻中の7月24日にクリーブランドは駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott, DD690)を支援する。ノーマン・スコットは敵砲台から数秒の内に6発の直撃弾を受ける。クリーブランドはノーマン・スコットと敵砲台の間に割って入り、それ以上の直撃弾を妨げた。

その後もクリーブランドは地上部隊への支援を継続し、第58任務部隊へ合流、6月19日、20日にはマリアナ沖海戦に参加する。米空母艦載機部隊を突破した日本軍機はほとんどなかったが、クリーブランドは少なくとも一機を自ら撃墜し、数機の破壊を支援した。

1944年9月12日から9月29日までクリーブランドはパラオ侵攻に参加し、10月5日にオーバーホールのためマヌス島に向かう。1945年2月9日にスービック湾に到着し、2月13日、14日にはコレヒドール島へ上陸前の艦砲射撃を行う。その後もプエルト・プリンセサ上陸支援、ヴィサヤ諸島、パナイ島、ミンダナオ島のマラバン、パランへの攻撃を行った。

1945年6月7日にスービック湾を出航し、6月10日にボルネオのブルネイ湾上陸部隊を支援する。6月15日にスービック湾に帰還し、その後6月30日にマニラでダグラス・マッカーサー将軍が乗艦、マッカーサーと彼のスタッフはバリクパパン攻撃を艦上から観察した。31日には上陸前の艦砲射撃を行い、マッカーサー将軍が上陸地点を視察した後マニラへ向かい7月3日に到着した。

クリーブランドは新たな巡洋艦任務部隊と共に1945年7月13日に沖縄に向かい、7月16日に到着する。沖縄を拠点として部隊は日本艦艇に対する掃海攻撃を8月7日まで行い、東シナ海における連合軍の制海権を確立した。

クリーブランドは9月9日に沖縄を出航し、占領支援任務および和歌山からの連合軍捕虜輸送支援を行う。その後第6軍が本州に上陸するまで海軍占領部隊の一部として任務に従事、10月28日から11月1日まで東京湾で停泊した後、真珠湾、サンディエゴ、パナマ運河経由で12月5日にボストンに到着、オーバーホールに入る。オーバーホール後はニューポート沖で様々な訓練を行い、その中には1946年6月に海軍予備役兵のノバスコシア州ハリファックス、ケベックへの巡航も含まれた。その後フィラデルフィアで不活性化され、1947年2月7日に退役、1960年2月18日に売却された。

2009年02月18日

抗生物質(こうせいぶっしつ antibiotics)

抗生物質(こうせいぶっしつ antibiotics)とは、微生物が産生し、ほかの微生物の増殖を抑制する物質の総称である。
わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

antibioticsの語は1941年にセルマン・ワクスマンが定義した「微生物によってつくられ、微生物の発育を阻害する物質」が原義である。

フレミングが最初に発見した(1929年)抗生物質であるペニシリンはアオカビが産生する。初期の抗生物質は抗菌性(antibacterial)を示すものがほとんどである。

一方、抗生物質が化学療法にもたらした貢献は革新的であり、抗生物質は抗菌剤の代名詞ともなった。その後、化学療法が扱う抗真菌、抗ウイルス、抗腫瘍の領域においても、真菌類や放線菌類などの産生する天然物が探求されていった。その結果、抗腫瘍性抗生物質のように、必ずしも微生物ではないウイルスや悪性新生物の化学療法剤も抗生物質に含まれるようになった。

また天然物を化学的に修飾し、その作用の増強や性質の改良が研究され、それら修飾された薬剤も抗生物質とよばれるようになった。したがって、今日では「微生物の産生物に由来する化学療法剤」が広義には抗生物質と呼ばれている。言い換えると、抗生物質は微生物の産生物に由来する抗菌剤、抗真菌剤、抗ウイルス剤、そして抗腫瘍剤であり、その大半が抗菌剤である。 なお、ピリドンカルボン酸系(キノロン系、ニューキノロン系)やサルファ剤など、完全に人工的に合成された抗菌性物質も一般的には「抗生物質」と呼ばれるが、厳密にはこれは誤りで「合成抗菌薬」と呼ぶのが正しい。抗菌性の抗生物質、合成抗菌薬をあわせて、広義の抗菌薬と呼ぶ。

薬理
抗生物質を含む抗菌剤は、細菌が増殖するのに必要な代謝経路に作用することで細菌にのみ選択的に毒性を示す(人体への毒性はそれに比べはるかに小さい)化学物質である。アルコール、ポビドンヨードなどのように、単に化学的な作用で細菌を死滅させる殺菌剤、消毒薬とは区別される。

細菌性の肺炎や気管支炎、中耳炎、敗血症など感染症の治療に用いられる。人類の最大の脅威であった細菌感染を克服し、平均寿命を大幅に伸ばすこととなった大発明であった。[1]しかし、感染症との戦いは終わったわけではなく、治療法の開発されていない新興感染症、抗生物質の効力が薄くなるなどした再興感染症などが問題となっている。

耐性菌の出現
抗生物質を濫用すると、抗生物質を分解したり無毒化してしまう因子を獲得した細菌(耐性菌)の発現・拡散を助長する危険性がある。実際、抗生物質を多用する大病院などの医療現場を中心に、多くの抗生物質に耐性を示す多剤耐性菌、とりわけメチシリンが効かないメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(Methicillin-resistant Staphylococcus aureus:MRSA)による院内感染が問題となっている。さらに、MRSAに対しても効果があるとされた薬剤・バンコマイシンでさえ効果のないバンコマイシン耐性腸球菌(VRE)、バンコマイシン耐性ブドウ球菌(VRSA)などが報告されるようになった。

医療機関(主に開業医)は風邪の患者に対して抗生物質を処方することもある。しかし風邪の多くはウイルスの感染症であり、抗菌剤である抗生物質は風邪の治療に効果がないことが多い。抗生物質の投与は細菌感染による肺炎などの合併症の予防のためという根拠も脆弱として、日本呼吸器学会は風邪への安易な抗生物質処方を控えるべき旨のガイドラインを発表した(抗菌薬の適正使用)。

分類
構造による分類
β-ラクタム系
ペニシリン系(PCs)
βラクタマーゼ阻害剤配合ペニシリン系
セフェム系(Ceph)
βラクタマーゼ阻害剤配合セフェム系
カルバペネム系
モノバクタム系
アミノグリコシド系
テトラサイクリン系
クロラムフェニコール系
マクロライド系
14員環マクロライド
含窒素15員環マクロライド
16員環マクロライド
ケトライド系…マクロライドに似る。
ポリエンマクロライド系…真菌に対して使用。
グリコペプチド系…抗MRSA薬。グラム陽性球菌のみに有効。
核酸系

作用機序による分類
DNA合成阻害
RNA合成阻害
蛋白質合成阻害
細胞壁合成阻害
細胞膜変質
代謝阻害

その他
抗癌抗生物質
マイトマイシンC
ブレオマイシン

抗生物質の臨床応用

抗生物質の大部分は抗菌薬として使用される。抗菌薬の投与方法は臨床薬理学の考え方が適用されている。細菌感染症に対する抗生物質の投与は、抗生物質は化学療法剤とは異なるものの、臨床医学的にはまとめて化学療法と呼ばれている。

その他、ポリエンマクロライド系抗生物質は真菌の治療に使用される。また、癌治療にはマイトマイシンCやブレオマイシンなどの抗生物質が使用される。またシクロスポリンも抗生物質であり、免疫抑制剤として移植医療の現場で活躍している。

2009年01月28日

西上作戦(せいじょうさくせん)

西上作戦(せいじょうさくせん)とは、元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐武田氏の当主・武田信玄による大規模な遠征である。

永禄11年(1568年)9月26日、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした。しかし永禄13年(1570年)1月、信長は義昭の将軍権力を制限するため、殿中御掟を義昭に突きつけて強制的に承認させた。これにより信長に不満を抱いた義昭は、本願寺顕如・朝倉義景・三好三人衆、そして武田信玄らに信長討伐を命じる御内書を発したのである。
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信玄は当時、織田信長の実力を認識して永禄8年(1565年)に武田勝頼(信玄の4男)と信長の養女(信長の妹婿・遠山友勝の娘)と結婚することで同盟を結び、この夫人が早世した後の永禄10年(1567年)には松姫(信松尼・信玄の6女)と織田信忠(信長の嫡男)を婚約させることで同盟関係を維持していた。そのため、義昭の信長討伐にはすぐには応じなかった。

しかし元亀元年(1570年)4月、信長が妹婿・浅井長政の裏切りにより越前遠征で大敗する。直後の6月28日に行なわれた姉川の戦いでは信長が勝利したものの、この後、信長は浅井長政・朝倉義景・三好三人衆・石山本願寺らに包囲されて窮地に立たされるようになる(信長包囲網)。

本願寺の法主・本願寺顕如の正室・如春尼は信玄の正室・三条の方の妹に当たる。そのため12月には顕如から信玄に援助を要請する書状が送られることとなり、信玄も次第に信長との対立を意識し始めた。

元亀2年(1571年)5月には大和の松永久秀からも信玄に対して援助を要請する書状が送られてきた。そして10月3日、信玄の上洛を牽制して敵対していた相模の北条氏康が病死した。後を継いだ北条氏政は信玄の娘婿であり、武田家との和睦・同盟を積極的に信玄に求め、12月27日には武田・北条同盟が締結された。このときの条件は上杉謙信との越相同盟を破棄し、氏政の実弟・北条氏規と北条氏忠を信玄のもとに人質として差し出し、さらに氏政は2000人の援軍を信玄に差し出すことも条件とされるなど、信玄に圧倒的に有利な条件で同盟が結ばれた。

元亀3年(1572年)8月には、信玄と5度にわたって信濃川中島で戦った宿敵・上杉謙信を牽制するため、信玄は本願寺顕如に要請して越中で一向一揆を起こさせた(越中一向一揆)。このときの越中一向一揆は大規模なもので、勝興寺顕栄・瑞泉寺顕秀ら本願寺坊官のほかに椎名康胤・神保長職ら越中の大名も参加して謙信に敵対した。このため、謙信は一揆の鎮圧にかかりきりとなり、武田領に侵攻するような余裕は無くなった。

織田信長も、義昭が策動した信長包囲網により浅井長政・朝倉義景と対峙しており、さらに織田軍は摂津・和泉・河内・山城など畿内各地の反乱鎮圧に分散して出向いていたため、武田信玄に対応できるような余裕は無かった。そして信玄は信長との同盟を破棄し、信長打倒のために大規模な遠征軍を起こすことになるのである。

戦役
出兵・序盤
元亀3年(1572年)9月29日、武田信玄は重臣の山県昌景に5000の兵力を預けて信長の同盟者である徳川家康の所領・三河に侵攻させた。また高遠城代の秋山信友にも5000の兵力を預けて伊奈谷から信長の所領・東美濃に侵攻させ、要衝である岩村城を包囲させた。そして10月3日、信玄も2万2000の兵力を率いて甲府から出陣し、10月10日には青崩峠から家康の所領・遠江に侵攻を開始した。

三河に侵攻した山県昌景は、北三河の国人領主である田峯城主・菅沼定忠、作手城主・奥平貞勝、長篠城主・菅沼満直ら山家三方衆らを道案内人として進軍し、長篠城の南東に位置する鈴木重時の柿本城を攻撃した。しかし重時は昌景を恐れて城から逃亡し、その逃走途中で討たれた。さらに昌景は伊平城を落として11月初旬、二俣城を攻囲していた信玄本隊に合流した。

東美濃に侵攻した秋山信友は、岩村城を攻囲した。岩村城主は遠山七頭と呼ばれて東美濃で勢威を振るった遠山景任であるが、武田軍の侵攻直前に病死した。このため、信長は子の坊丸(織田勝長)を養子として送り込んだ。しかし坊丸はまだ3歳のため、実際には景任夫人であった信長の叔母・おつやの方が女城主として指揮を執った。岩村城は標高721メートルの山上に築かれた堅城であり、さすがの武田軍も攻めあぐんだ。すると信友は女城主であるおつやの方に対して結婚を申し出たのである。実はおつやは信長の叔母であるが、実際は信長より年下で美貌の持ち主で知られていた。おつやは最初は拒絶したが、信長は信長包囲網に苦しめられて岩村城に援軍を遅れるような余裕はない。援軍の無い籠城戦には展望が無く、11月初旬におつやは信友と結婚することで降伏した。

そして遠江に信玄本隊が侵攻すると、北遠江で勢威を振るっていた家康の与党・天野景貫は信玄の勢威を恐れて即座に降伏し、信玄の道案内を務めた。10月13日、信玄は本隊を2隊に分け、5000ほどの1隊を重臣の馬場信春に預けて只深城を攻略させて二俣城に進撃させ、残る1万7000の信玄本隊は天方城・一宮城・飯田城・挌和城・向笠城などの徳川諸城をわずか1日で全て落とした。

一言坂・二俣城の戦
徳川家康には対抗手段が無かった。徳川氏の総兵力は1万2000。しかし三河から山県昌景が侵攻しているために三河の兵力は動かせず、遠江の兵力である8000だけで対抗するしかなかった。武田軍の半数以下である。しかし信玄の侵攻に対してこのまま動きを見せなければ味方国人の動揺は必至と見て、10月14日に家康は信玄と戦うべく出陣した。しかし太田川の支流である三箇野川や一言坂で武田軍と衝突した徳川軍は、兵力の多寡により敗退する。しかし家康の重臣・本多忠勝や大久保忠佐らの活躍もあって家康は無事に浜松城に撤退した。このときの本多忠勝の活躍は、信玄をして感嘆させるものであったと伝えられている。

10月15日、信玄は匂坂城を攻略した。10月16日にはすでに只深城を攻略して二俣城を包囲していた馬場信春の部隊と合流した。二俣城は遠江の中央部に位置する要衝であった。しかもその名前の如く、天龍川と二俣川が合流する二俣の丘陵上に築かれた堅城であった。城主の中根正照は兵力で圧倒的に不利な立場でありながら徹底抗戦を行ない、武田軍を苦しめた。しかし信玄の策略によって行なわれた水攻めにより水の手が断たれ、さらに三河に侵攻していた山県昌景の部隊が信玄本隊に合流するなどしたことから、12月19日に正照は城兵の助命を条件にして開城し、浜松城に落ちていった。これにより、遠江の大半が武田領となり、また遠江の国人・地侍の多くも武田軍の味方となった。

三方ヶ原の戦い
信玄は信長と戦うまでは兵力の損耗や長期戦は嫌った。家康の居城・浜松城は東西420メートル、南北250メートルに及ぶ巨郭であり、多くの曲輪に仕切られた堅城であった。しかも家康の援軍要請に応じた織田信長が12月中旬に佐久間信盛・平手汎秀ら3000の援軍を派遣していたため、徳川軍の総勢は1万1000に増加していた。

このため、信玄は浜松城の北5キロの地である追分に進出して家康を挑発して城から誘き出した。そして12月22日に行なわれた三方ヶ原の戦いは、武田軍2万7000、織田・徳川連合軍1万1000という圧倒的に連合軍不利な状況で開戦され、わずか2時間で武田軍の一方的な圧勝で終わった。武田軍の死者はわずか200人。連合軍は平手汎秀をはじめ、中根正照・青木貞治・石川正俊・小笠原安次・小笠原安広(安次の子)・本多忠真・米津政信・大久保忠寄・鳥居忠広ら2000が死傷するという状況であった。このとき、家康は山県昌景の猛攻を受け、家臣の夏目吉信が身代わりとなっている間に命からがら浜松城に逃げ込んだといわれ、しかも恐怖のあまり脱糞したと伝えられている。しかし家康の使った空城の計に疑念をもった山県昌景らは、浜松城までは攻撃しなかった。

三河侵攻
三方ヶ原で大勝した武田信玄であるが、すぐには三河に侵攻せず、浜名湖北岸の刑部で越年した。刑部は三河・遠江国境から20キロ手前に位置する地点である。信玄がなぜすぐに三河に侵攻しなかったかは不明である。家康の浜松城の牽制のためともいわれるが、三方ヶ原の戦いで大敗した家康に信玄と戦えるような余裕は無いはずである。恐らくは信玄の持病が悪化していたためか、あるいは味方であった朝倉義景が越前に撤兵したためではないかとも推測される。

年が明けて元亀4年(1573年)1月3日、信玄は進軍を再開、遂に三河へ侵攻した。そして東三河の要衝である野田城を包囲する(野田城の戦い)。

野田城は小規模な城であり、わずか400ほどの城兵しかいなかった。城主の菅沼定盈は信玄の降伏勧告を拒絶して徹底抗戦を行なったが、武田の大軍2万7000に対抗できるはずがない。

しかし、信玄は野田城攻めは力攻めで行わず、金堀衆に城の地下に通じる井戸を破壊させるという水攻めを行なった。なぜ、信玄がこのように時間のかかる城攻めを行なったかは不明であり、野田城が水の手を断たれて降伏するのは2月10日のことである。

撤退
野田城攻城戦に時間がかかった理由は、信玄の持病が急速に悪化(肺結核、胃癌、甲州における風土病など)したためとされるほか、松平記では信玄が野田城を包囲している際に美しい笛の音に誘われて本陣を出たときに鳥居半四郎なる者に狙撃されて負傷したという説などがある(影武者(黒沢明監督)ではこの説にならっている)。

このような信玄の遅々とした動きに疑念をもった織田信長は、2月から反攻に転じる。重臣の柴田勝家や丹羽長秀・蜂屋頼隆・明智光秀に命じて2月26日に近江石山城の山岡景友を降伏させ、2月29日には今堅田城の六角義賢らを討った。

甲陽軍鑑によると、このような信長の動きを知った信玄は、3月に重臣の馬場信春に命じて東美濃に侵攻させて、信長が率いる織田勢を破って岐阜城に追い払ったとされている。

しかし信玄の持病は良くならず、4月には病気療養を目的にして甲府への撤退を決意する。しかし4月12日、信玄は信濃駒場で急死し、武田軍の上洛・信玄の天下取りは頓挫することとなったのである。

上洛戦について・その後
信玄の行なった大規模遠征には、単なる徳川家康打倒のために行なわれた徳川領侵攻戦ともされているが、甲陽軍監では信玄が「遠州・三河・美濃・尾張に発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政(まつりごと)をただしく執行(とりおこな)はんとの、信玄の望む是なり」という、信玄自らが述べたとされる言葉が記されている。さらに信玄が朝倉義景の撤兵に怒って送りつけた書状の文面が伊能文書で紹介されていることから、信玄は上洛を目指していたものと思われる。

信玄の死後、後を継いだ武田勝頼も信長包囲網の一翼を担って信長と戦ったが、浅井氏・朝倉氏・三好氏・石山本願寺などの味方が次々と信長に討たれて孤立した武田家は、信玄の死から9年後に信長によって滅ぼされた。

2009年01月20日

人間の身体をもって表現する技法

芸能(げいのう)とは、芸術の諸ジャンルのうち、人間の身体をもって表現する技法のことである。職業として芸能に携わる者を芸能人と呼ぶ。

一般に演劇・舞踊・ポピュラー音楽・映画・大衆演芸・民俗芸能等が含まれる。古くは時と場所を限定した瞬時の演劇演奏によって表され、それが直ちに消滅するので瞬間芸術と呼ばれたが、近代には録音・録画の技術が発達し、これらによって表現された作品も芸能と呼ばれるようになった。

芸能の歴史

西洋芸能史
古代ギリシャの演劇が西洋における芸能の起源といえる。音楽においては、クラシック音楽(狭義には古典派音楽を指すが、ここでは広義のクラシック音楽、すなわち芸術音楽を指す)の発祥の地であるため、芸能としての音楽すなわちポピュラー音楽はその陰に隠れた印象があるが、フランスのシャンソン、イタリアのカンツォーネ、そしてアメリカ合衆国のジャズは西洋で発展したポピュラー音楽である。

東洋芸能史
「芸能」という言葉は元来は中国の言葉であるが、古くは学問や武芸など今日の芸能に含まれない分野も指していた。

日本芸能史

古代
日本の芸能は村々における神祭りの場を母胎とした。黎明期の芸能はシャーマニズム儀礼の形をとっていたと考えられている。大和朝廷は祭りの場の歌舞をいち早く芸能化し、猿女氏や物部氏がそれを行った。これが神楽のもととなったと考えられている。平安時代にはいると猿楽・田楽が行われるようになった。

中世
鎌倉時代には猿楽・田楽が人気を集めたが、室町時代に入り猿楽が世阿弥らによって能と狂言に発展させられると、田楽は衰退し地方寺社の祭礼芸能として命脈をとどめることになった。

近世
江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃が人気を集める一方、大衆演芸として落語も人気を集めた。

明治維新以降?第二次世界大戦前
文明開化によって映画や西洋の演劇が日本にも流入した。西洋の演劇のうち芸術性の強いものは新劇と呼ばれ、一方大衆性の強いものが新派劇や商業演劇となった。

第二次世界大戦後
第二次世界大戦終結後、日本が米国によって占領され、音楽の分野においても西洋のポピュラー音楽が多く入ってきた。従来の日本のポピュラー音楽は演歌・歌謡曲が中心だったが、1950年代にはジャズ・シャンソンが、1960年代後半ザ・ビートルズが来日公演したきっかけでグループサウンズが流行する。さらに1970年代前半にはフォークソングが、1970年代後半にはニューミュージック・ロック・フュージョン・シティ・ポップス等が日本人にも受け入れられることになった。

伝統芸能(でんとうげいのう)とは、日本に古くからあった芸術と技能の汎称。特定階級または大衆の教養や娯楽、儀式や祭事などを催す際に付随して行動化されたもの、または行事化したものを特定の形式に系統化して伝承または廃絶された、有形無形のものを言う。詩歌・音楽・舞踊・絵画・工芸・芸道などがある

伝統芸能とは、西洋文化が入ってくる前の芸術と技能を現代芸術と区別した呼称である。日本固有の文化という意味だが、文化の先進国であった中国から流入したものを日本独自のものに作り変えたものが多い。したがって成立の仕方は現代芸術とさほど変わりはない。しかし、明治期の西洋化以降も伝統芸能が既存の形式を保持して存続し、現代芸術と相互に関連性が少ない形で併存しているのは事実である。また、日本では別々の時代に成立した多くの伝統芸能が並列的に存在しているが、すべての伝統芸能が現存しているのではない。

形式による分類


和歌
長歌
短歌
旋頭歌
片歌
連歌
俳諧
俳句
連句

日本舞踊
神楽
田楽
雅楽
舞楽
猿楽
白拍子
延年
曲舞
上方舞
念仏踊り
盆踊り
歌舞伎舞踊

演劇
能楽
狂言
歌舞伎
人形浄瑠璃
シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア

音曲
雅楽
声楽
歌舞
管弦
舞楽
邦楽
箏曲
尺八楽
三味線楽
地歌
浄瑠璃節
義太夫節
豊後節(廃絶)
常磐津節
富本節(廃絶)
清元節
新内節
河東節
宮園節

地歌
長唄
荻江節
歌沢
端唄
小唄
都々逸
詩吟
民謡
島唄(奄美民謡)
アイヌ民謡

演芸
講談(講釈)
落語
浪花節(浪曲)
奇術
萬歳

梯子乗り
女道楽
太神楽
紙切り
曲ゴマ
写し絵

琉球芸能
組踊
端踊
御座楽
琉球民謡

工芸
彫金
漆器
陶芸
織物

[芸道
茶道
香道
武芸
書道
華道