西上作戦(せいじょうさくせん)とは、元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐武田氏の当主・武田信玄による大規模な遠征である。
永禄11年(1568年)9月26日、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした。しかし永禄13年(1570年)1月、信長は義昭の将軍権力を制限するため、殿中御掟を義昭に突きつけて強制的に承認させた。これにより信長に不満を抱いた義昭は、本願寺顕如・朝倉義景・三好三人衆、そして武田信玄らに信長討伐を命じる御内書を発したのである。
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信玄は当時、織田信長の実力を認識して永禄8年(1565年)に武田勝頼(信玄の4男)と信長の養女(信長の妹婿・遠山友勝の娘)と結婚することで同盟を結び、この夫人が早世した後の永禄10年(1567年)には松姫(信松尼・信玄の6女)と織田信忠(信長の嫡男)を婚約させることで同盟関係を維持していた。そのため、義昭の信長討伐にはすぐには応じなかった。
しかし元亀元年(1570年)4月、信長が妹婿・浅井長政の裏切りにより越前遠征で大敗する。直後の6月28日に行なわれた姉川の戦いでは信長が勝利したものの、この後、信長は浅井長政・朝倉義景・三好三人衆・石山本願寺らに包囲されて窮地に立たされるようになる(信長包囲網)。
本願寺の法主・本願寺顕如の正室・如春尼は信玄の正室・三条の方の妹に当たる。そのため12月には顕如から信玄に援助を要請する書状が送られることとなり、信玄も次第に信長との対立を意識し始めた。
元亀2年(1571年)5月には大和の松永久秀からも信玄に対して援助を要請する書状が送られてきた。そして10月3日、信玄の上洛を牽制して敵対していた相模の北条氏康が病死した。後を継いだ北条氏政は信玄の娘婿であり、武田家との和睦・同盟を積極的に信玄に求め、12月27日には武田・北条同盟が締結された。このときの条件は上杉謙信との越相同盟を破棄し、氏政の実弟・北条氏規と北条氏忠を信玄のもとに人質として差し出し、さらに氏政は2000人の援軍を信玄に差し出すことも条件とされるなど、信玄に圧倒的に有利な条件で同盟が結ばれた。
元亀3年(1572年)8月には、信玄と5度にわたって信濃川中島で戦った宿敵・上杉謙信を牽制するため、信玄は本願寺顕如に要請して越中で一向一揆を起こさせた(越中一向一揆)。このときの越中一向一揆は大規模なもので、勝興寺顕栄・瑞泉寺顕秀ら本願寺坊官のほかに椎名康胤・神保長職ら越中の大名も参加して謙信に敵対した。このため、謙信は一揆の鎮圧にかかりきりとなり、武田領に侵攻するような余裕は無くなった。
織田信長も、義昭が策動した信長包囲網により浅井長政・朝倉義景と対峙しており、さらに織田軍は摂津・和泉・河内・山城など畿内各地の反乱鎮圧に分散して出向いていたため、武田信玄に対応できるような余裕は無かった。そして信玄は信長との同盟を破棄し、信長打倒のために大規模な遠征軍を起こすことになるのである。
戦役
出兵・序盤
元亀3年(1572年)9月29日、武田信玄は重臣の山県昌景に5000の兵力を預けて信長の同盟者である徳川家康の所領・三河に侵攻させた。また高遠城代の秋山信友にも5000の兵力を預けて伊奈谷から信長の所領・東美濃に侵攻させ、要衝である岩村城を包囲させた。そして10月3日、信玄も2万2000の兵力を率いて甲府から出陣し、10月10日には青崩峠から家康の所領・遠江に侵攻を開始した。
三河に侵攻した山県昌景は、北三河の国人領主である田峯城主・菅沼定忠、作手城主・奥平貞勝、長篠城主・菅沼満直ら山家三方衆らを道案内人として進軍し、長篠城の南東に位置する鈴木重時の柿本城を攻撃した。しかし重時は昌景を恐れて城から逃亡し、その逃走途中で討たれた。さらに昌景は伊平城を落として11月初旬、二俣城を攻囲していた信玄本隊に合流した。
東美濃に侵攻した秋山信友は、岩村城を攻囲した。岩村城主は遠山七頭と呼ばれて東美濃で勢威を振るった遠山景任であるが、武田軍の侵攻直前に病死した。このため、信長は子の坊丸(織田勝長)を養子として送り込んだ。しかし坊丸はまだ3歳のため、実際には景任夫人であった信長の叔母・おつやの方が女城主として指揮を執った。岩村城は標高721メートルの山上に築かれた堅城であり、さすがの武田軍も攻めあぐんだ。すると信友は女城主であるおつやの方に対して結婚を申し出たのである。実はおつやは信長の叔母であるが、実際は信長より年下で美貌の持ち主で知られていた。おつやは最初は拒絶したが、信長は信長包囲網に苦しめられて岩村城に援軍を遅れるような余裕はない。援軍の無い籠城戦には展望が無く、11月初旬におつやは信友と結婚することで降伏した。
そして遠江に信玄本隊が侵攻すると、北遠江で勢威を振るっていた家康の与党・天野景貫は信玄の勢威を恐れて即座に降伏し、信玄の道案内を務めた。10月13日、信玄は本隊を2隊に分け、5000ほどの1隊を重臣の馬場信春に預けて只深城を攻略させて二俣城に進撃させ、残る1万7000の信玄本隊は天方城・一宮城・飯田城・挌和城・向笠城などの徳川諸城をわずか1日で全て落とした。
一言坂・二俣城の戦
徳川家康には対抗手段が無かった。徳川氏の総兵力は1万2000。しかし三河から山県昌景が侵攻しているために三河の兵力は動かせず、遠江の兵力である8000だけで対抗するしかなかった。武田軍の半数以下である。しかし信玄の侵攻に対してこのまま動きを見せなければ味方国人の動揺は必至と見て、10月14日に家康は信玄と戦うべく出陣した。しかし太田川の支流である三箇野川や一言坂で武田軍と衝突した徳川軍は、兵力の多寡により敗退する。しかし家康の重臣・本多忠勝や大久保忠佐らの活躍もあって家康は無事に浜松城に撤退した。このときの本多忠勝の活躍は、信玄をして感嘆させるものであったと伝えられている。
10月15日、信玄は匂坂城を攻略した。10月16日にはすでに只深城を攻略して二俣城を包囲していた馬場信春の部隊と合流した。二俣城は遠江の中央部に位置する要衝であった。しかもその名前の如く、天龍川と二俣川が合流する二俣の丘陵上に築かれた堅城であった。城主の中根正照は兵力で圧倒的に不利な立場でありながら徹底抗戦を行ない、武田軍を苦しめた。しかし信玄の策略によって行なわれた水攻めにより水の手が断たれ、さらに三河に侵攻していた山県昌景の部隊が信玄本隊に合流するなどしたことから、12月19日に正照は城兵の助命を条件にして開城し、浜松城に落ちていった。これにより、遠江の大半が武田領となり、また遠江の国人・地侍の多くも武田軍の味方となった。
三方ヶ原の戦い
信玄は信長と戦うまでは兵力の損耗や長期戦は嫌った。家康の居城・浜松城は東西420メートル、南北250メートルに及ぶ巨郭であり、多くの曲輪に仕切られた堅城であった。しかも家康の援軍要請に応じた織田信長が12月中旬に佐久間信盛・平手汎秀ら3000の援軍を派遣していたため、徳川軍の総勢は1万1000に増加していた。
このため、信玄は浜松城の北5キロの地である追分に進出して家康を挑発して城から誘き出した。そして12月22日に行なわれた三方ヶ原の戦いは、武田軍2万7000、織田・徳川連合軍1万1000という圧倒的に連合軍不利な状況で開戦され、わずか2時間で武田軍の一方的な圧勝で終わった。武田軍の死者はわずか200人。連合軍は平手汎秀をはじめ、中根正照・青木貞治・石川正俊・小笠原安次・小笠原安広(安次の子)・本多忠真・米津政信・大久保忠寄・鳥居忠広ら2000が死傷するという状況であった。このとき、家康は山県昌景の猛攻を受け、家臣の夏目吉信が身代わりとなっている間に命からがら浜松城に逃げ込んだといわれ、しかも恐怖のあまり脱糞したと伝えられている。しかし家康の使った空城の計に疑念をもった山県昌景らは、浜松城までは攻撃しなかった。
三河侵攻
三方ヶ原で大勝した武田信玄であるが、すぐには三河に侵攻せず、浜名湖北岸の刑部で越年した。刑部は三河・遠江国境から20キロ手前に位置する地点である。信玄がなぜすぐに三河に侵攻しなかったかは不明である。家康の浜松城の牽制のためともいわれるが、三方ヶ原の戦いで大敗した家康に信玄と戦えるような余裕は無いはずである。恐らくは信玄の持病が悪化していたためか、あるいは味方であった朝倉義景が越前に撤兵したためではないかとも推測される。
年が明けて元亀4年(1573年)1月3日、信玄は進軍を再開、遂に三河へ侵攻した。そして東三河の要衝である野田城を包囲する(野田城の戦い)。
野田城は小規模な城であり、わずか400ほどの城兵しかいなかった。城主の菅沼定盈は信玄の降伏勧告を拒絶して徹底抗戦を行なったが、武田の大軍2万7000に対抗できるはずがない。
しかし、信玄は野田城攻めは力攻めで行わず、金堀衆に城の地下に通じる井戸を破壊させるという水攻めを行なった。なぜ、信玄がこのように時間のかかる城攻めを行なったかは不明であり、野田城が水の手を断たれて降伏するのは2月10日のことである。
撤退
野田城攻城戦に時間がかかった理由は、信玄の持病が急速に悪化(肺結核、胃癌、甲州における風土病など)したためとされるほか、松平記では信玄が野田城を包囲している際に美しい笛の音に誘われて本陣を出たときに鳥居半四郎なる者に狙撃されて負傷したという説などがある(影武者(黒沢明監督)ではこの説にならっている)。
このような信玄の遅々とした動きに疑念をもった織田信長は、2月から反攻に転じる。重臣の柴田勝家や丹羽長秀・蜂屋頼隆・明智光秀に命じて2月26日に近江石山城の山岡景友を降伏させ、2月29日には今堅田城の六角義賢らを討った。
甲陽軍鑑によると、このような信長の動きを知った信玄は、3月に重臣の馬場信春に命じて東美濃に侵攻させて、信長が率いる織田勢を破って岐阜城に追い払ったとされている。
しかし信玄の持病は良くならず、4月には病気療養を目的にして甲府への撤退を決意する。しかし4月12日、信玄は信濃駒場で急死し、武田軍の上洛・信玄の天下取りは頓挫することとなったのである。
上洛戦について・その後
信玄の行なった大規模遠征には、単なる徳川家康打倒のために行なわれた徳川領侵攻戦ともされているが、甲陽軍監では信玄が「遠州・三河・美濃・尾張に発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政(まつりごと)をただしく執行(とりおこな)はんとの、信玄の望む是なり」という、信玄自らが述べたとされる言葉が記されている。さらに信玄が朝倉義景の撤兵に怒って送りつけた書状の文面が伊能文書で紹介されていることから、信玄は上洛を目指していたものと思われる。
信玄の死後、後を継いだ武田勝頼も信長包囲網の一翼を担って信長と戦ったが、浅井氏・朝倉氏・三好氏・石山本願寺などの味方が次々と信長に討たれて孤立した武田家は、信玄の死から9年後に信長によって滅ぼされた。